僕にはある信念があります
「人を疑い、真面目に生きるより、人を信じて、馬鹿を見る人になる。」
この「人を疑う」ことが僕の得意技だった(笑)いつからこんなしょうもない技を覚えたんだろう?
この得意技を遺憾なく発揮していた、10代後半から20代前半の怖い・怖いお話…
なぜ疑うようになったのか
いつからかは覚えてないけど、自覚したのは高校2年生くらいの時だったと思う。大きな出来事や些細なことまで色々な経験からこの癖のある性格になったのかな?(笑)
まず、部活を辞めた時。これは今でも鮮明に覚えている。周りの声は賛否両方あり、非難の声ばかりを気にしていた。
これをきっかけに人の顔色や目を気にして、嫌われないように・人の顔色を伺いながら数年間生活してきました

顔色ばかり気にしていると、人に合わせるようになり、自分の判断基準が他人ベースになってきます
自分の人生なのに、他人の人生を自然と歩いていた。または、他人の道・レールを自分から乗っかっていた
すると、判断する場面がやってくると、まず周りを見渡し、周囲に合わせるようになる。自分が周囲に向けて発表する時、「変なことは言えない。」と自分の気持ちを押し殺し、人の顔色が変わらないように慎重に言葉を選ぶ。

一番に恐れていたのは、人の気分を損ねた時。
自分が何かしたんじゃないか、あの時こうしておけば良かった、こう言っておけば…と、被害妄想がどんどん膨らみ、湧水のようにずっとネガティブな思考が出てくる。
こうなると余計に人の目が怖くなり、さらに自分を押し殺して生活することに。
さて、この状態で人付き合いをするとどうなるか。ちょっと想像してみてください。人を疑いの目で見るようになり、人を信じることはできるだろうか?
ここまでは高校生のお話。これから専門学校に上がっていく
信用の本当の意味
疑いの目が出来上がると、自分が人にこうしたから、相手も自分に対して何かしてくれるだろう。
と、見返りを求めるようになりました。見返りがないと、信用ができないから。自分の行動が勿体無い、自分の行動に対して何も返ってこないと、時間の無駄だなあと思っていた時期も(笑)
担保と同じですね。これくらいの見返りが保証されているから、人を信じることができる。
自分がこのように生きていたことにびっくり!こうなると誰も信じられなくなり、人からも信じてもらえなくなってしまった。

そして信頼とは…
見返りを求めず、無条件で人を信じること。
疑いの目を持っていた過去の自分にとって、こんな人いるのかな?とか思っていた。皆さんも考えてみてほしい。
自分の家族
親友
恋人
そもそも見返りを求めない人々
こういう人はこう考えているんじゃないかな?
自分は人に何を与えることができるだろうか。
その人から何を貰えるかなと受け身の姿勢ではなく、今の自分は何ができるのかと自分から動く姿勢をとっている
実は信頼の…
ここまで読んで、信頼の反対は信用なのかなと思った人もいると思います。しかし実際は違います
信頼の反対は懐疑。疑うこと。
そう、僕の人生は信頼の程遠い人生を送っていたのです。疑いの目を持つことは人それぞれ。なかなか変えられないのが正直なところ
疑ってもいい。見返りを求めてもいい。自分が良ければと考えている人も居ていいと思う。
これだけ言いたいのは、それでも無条件で信じてくれる人がいるということ

これに気付いたからこそ、まず自分から人を信じるという信念が出来上がりました
その人がどんな人で、どんな過去を持っているのか・経験してきたのか…そんなことはどうでもいいから、自分から信頼できるようになりたい!
だからと言って誰でも信頼すると言うことはできない。信頼も一つの手段。自分の目的に向かう為の道具です
自分を振り返ってみて
この記事を書くきっかけになったのが「嫌われる勇気」という本。
できれば消したい・戻ってやり直したい!と何度思ったことか(笑)
けど、与えてもらってばかりで、人に見返りを求めすぎていたからこそ、これから自分は人に何が出来るだろうか・何か与えるものはないものかと考えながら生きていこうと思う
人を信じれない、人を疑ってしまう人に伝えたい。
無条件で信じてくれる・信頼してくれる人がいるから成長してきて、今もそんな人達に支えてもらっているという事を
ps. 信用ってお金で買えるけど、信頼って買えないよね
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